◎油断、隙のない信心を。失敗は成功の元と言うけれど、実際は元に戻るのは難しい。本当におかげをまだ頂いてないのだから、よけい油断できない。まずは朝の御祈念の姿勢から、それが自分の信条となるまで。%V
%1親先生のご祈念の姿勢。
%2お取次を頂かずして。
%3御祈念中に御神夢を頂いたなどとは恥ずかしくて言われないことだ。
%4親先生に隙があれば。
%5言う場合と言わない場合。
%G
%W
昭和四十三年九月二十四日朝の御理解
X御理解第四十五節 「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが三宝様は実るほどかがむ、人間は身代ができたり先生といわれるようになると頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほどかがんで通れ、とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つというが天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはないと思うけれど、大声で叱ったり手をふりあげたりすることはないが油断をすな、慢心が出るとおかげを取りはずすぞ。」
ここのところを、いつも頂きますところですね。「三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれる」三宝様というのは、ここではおよねのことですね。穀物のこと。実れば実るほど頭が下がる。その三宝様というのはいうなら宝様、三宝の三を取ると宝様になる。
私どもが難儀と思っておること、実はそれは宝様のようなもの、そこを踏みつけるようなことをする。それをいらんもののように思う。それではいつまでたってもおかげは受けられない。本当のおかげを受けられない。
%V信心させて頂いて、肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃっておられる。その心の眼が開けかかっておっても、とうとう開かんずまいでしまう。人間は肉眼を置いて、心眼を開くということが、そこから後の見方本当の考え方が出来るようになるのです。
%V肉眼ばっかりで見ておるから難儀に見えたり困ったことに見えたりするんですから、心の眼を開かせてもらえば、まともの見方、本当の考え方が出来るようになる。そこに信心の値打ちが、そういう意味にいつも頂くんですね。
%Vですから自分自身がはたしてどれくらい頭の下がる自分であるかということを、自分で自問自答してみると、自分の信心はつまらんなあ、自分の高慢な姿であったり、頭の高い姿勢であったり、神様からいつも大きな声で「頭が高いぞ」といわれておっても気がつかなかったり、いかに内容が貧しいかということを、ひとつ悟らしてもらわなならんが、それは人それぞれ。
最後のところです、ね。「油断をすな」というところ、「慢心が出るとおかげを落とすぞ」というところ、「おかげを取りはずすぞ」とある。ね。これは頂いておるものをまた取り落とすという意味じゃないと思うです。またそういう意味にも頂けるでしょう。せっかく信心してこれまでおかげを受けたのに、それをまた自分の信心油断から、お粗末御無礼から、またもとのもくあみになってしまう。そしてそこからですね、そこからまた上っていくとか、そういった、頂いていこうとすることは非常にむつかしい。
私は今朝方から御夢を頂きました。それが、『三人で、一人が誰か分からない。それは私の、まあここでいうなら秋永先生のような感じの人である。一人は全然見当もつかないが、それはどうも泥棒のようです。私に帰依しておる。泥棒というてもひじょうに邪気のない泥棒、水戸黄門さんに助さん格さんと泥棒の何とかというのが講談に出てくるのがあるでしょうが、そういう感じの泥棒なんです。
それがもうその、なんちゅうですかね、もう、寝るところもない。板切れ一枚のところに腰かけておかなければならない。向こうの方に寝台のような、古か畳のようなものがあって、そこにござが敷いてあるけれども、先程の雨で濡れてしまって、その上にはもう寝られないという、そしたら、泥棒が私の顔色を見ながらいうんです。
一人はまじめに私についてきておる。ここでいうなら秋永先生のような人が、まあいうなら私が顔うちからしてしまって、家内も居らなければ子供もいない、なんにも無くしてしまっておる。もう、もちろん家もない、住む家もない。着る着物も、寒なったというのに着物一枚着ておるというわけではない。
もう夕方になって少し寒くなってきた。そして、その泥棒が言うのが「先生、もう本職の方ばしていいですか」ち言うて、「どういうことするか。」「神様も御承知です。このように寒いのにふとんも着らんで寝るというのはないですから、ふとんだけ取りに行きますからいいでしょうか」とこういう訳なんです。ふとん取りに行くて。泥棒に行くて。そして、私がもっともらしく悟りすましたようにして言っておるんです。
「そういうことをしてはいけない。そういうことをして、また、めぐりを作るようなことではいけない。」と、泥部に理屈を言いおるところ。そうして、どういうことを三人で計画しておるかというと、もう養魚場。魚を養う養魚場を作る。
それがさまざまに艱難辛苦しておるけれども、どうしてもよい養魚場が出来ない。そして、とうとう何もかも無くしてしまって、そのためにつぎ込んでつぎ込んで、よい養魚場ができん。それでもやはり必ずいっぺんは成就させずにおかんというような気迫を持って、その事にあたっておるようだけれども、すでにその時に食べるに食なし、着るに衣なし。住むに家なしという状態である。』とてもこれは、夢が覚めてから思うのに、ああいう状態でも、また、よい養魚場というものが出来るとは思われないというようなこと。
%V「やっぱ、人間は失敗は成功の元じゃ。やっぱ失敗してそこから這い上がっていくということも、そこからまた成功する元になるのだ。」というふうに申しますけれども、信心しておかげを取りはずし、ここでは頂いておるものを取り落としたら、なかなか元に戻るということは難しい。ね。そして、私、今朝の御理解を頂こうと思うたら『四十五節の一番最後のところの、「油断をすな」というところを頂くのです』。
%Vそこで、そんならね。お互いが頂いておるものを頂いておるというところまでも、実はいっていない。いうならまだ、おかげを頂いていないの。頂いていないのだから、なおさら油断はしたらいかんわけなんですよね。
%Vおかげを頂くまではそれこそ油断もすきも作っちゃならない。もちろん合楽のみなさんはそうなんです。それこそまだ取りはずすものを持たないのだから、ま、例えて分かりやすくいうなら、ね。これから頂かなければならないというものが、油断をしてから頂けるはずがなおさらないでしょう。
ですからここんところをですね。「慢心が出るとおかげを取りはずすぞ」というところを、ここんのところをどういうことだろうかと私思わせて頂きよったらですね。あの、『ちょっと油断しておったものだから、バスに乗り遅れた』というところを頂くんです。
自分が心がけとりさえすりゃ、時間通りに行きさえすりゃ。そのバスに乗られるものを、それをちょっと油断したためにもう走って行きよるけれども、もう出よる。止めてくれない。というような情景を頂く。
はあー。「おかげを取りはずすぞ」ということは「乗りそこなうぞ」という「頂きそこなうぞ」ということなんです。
%V持っておるものを落としたということもあろうけれども、まあ、今のところを頂きますと、今朝の私の御夢なんかは、現在はこのようにおかげを頂いておるけれども、これを私がいっぺん取り落としてしもうたら家もなくなる、家内もなくなる。子供もいない。なあにもない、そこから、なら、昔取ったきねづかと申しましょうか、信心させて頂いて真心一心を持って、養魚場でも作ろうかというても、もうそん時には、その、出す手もない状態のごとある。ね。
%Vというて、悪いこともしきらんといういうようなことだ。だから、今日は皆様の場合、まだ頂くものも頂いていないというのであるから、今油断して頂けるはずはないじゃないか、何時何分のバスに乗らなければならない。これから乗せてもらわねばならんのだ。それに油断をしておって乗れるはずはないじゃないか。いわゆる乗り遅れる。乗りはずす。ね。油断のために乗りそこのうちゃいかんです。
みなさんの、ここから御祈念の姿を見ておるとですね、もう、御祈念の姿勢がなっとらんですよ。何人か、本当の姿勢で御祈念しておる人がおる。もう、こうやって合掌して頭を下げとると、ちゃーんと、手の中に頭ほうりこんじしもうとる。
%1私はいつもいうでしょう。御祈念の時にはこの額口と合掌しとるここんとこが、指一本入るぐらいに、こうやって開けとかな眠るけん、必ず。末永さんだん、もう、この中にほうりこんじしもうちから、畳に額つけちしもうちょる。
これで眠るなというのが無理です、ね。疲れに疲れ、眠る時間がないのですから、だから、ほかん時はどげん眠ってもよいけれども、さあ、こと御理解を頂く時、こと御神前に向かって御祈念をする時に、眠ってどうするですか。
額口、畳につけとるですから、眠らんはずがない。当たり前、眠るのが当たり前。ですから、そこに眠らんですむ工夫がいるです。が必要なんです。…ね。%1いうならばレールの中で御祈念をしとるような心持ち、とおっしゃる。いつ汽車がゴーと来るやら分からん。その位な真剣さがね、信心になからなければ。まして【】しておがんどる時でしょうが、…ね。
%1まずそういうところから油断…。まあだ頂きもしとらんのに油断しておる。それは私ども、過去の信心を思うて、私何十年の信心を頂いておりましても、もう、私の信心もまあ油断だらけであったけれども、終戦このかた、引き揚げてこのかたの信心は、自分ながら、よう、まあいうならば、すきをつくらん一生懸命の信心が出来たなというふうに思います。
%2例えば、あの信心の共励会、特に大和さんとか久富さんあたりはどこへでもこうしておいでられる。いかにもすきのないごつある。けれども、共励会に行くからね、自分も信心を頂いとかなければならん。また自分の信心を人に聞いてもらわなならん。けれどもね、行きがけに御広前によって御取次も頂かずに行ってから人が助かるとか、人が喜ばれるような本当の話が出来るはずがない。すーと、田主丸行くでんなんでん、通り抜けて行かれる。そういうすきだらけの信心でおかげ頂かれるはずない。
%2「只今から、共励会にやらせてもらいます。お話も、体験を話させて頂きたいと思います。いざ共にそれによっておかげを頂けるよう」願いに願い、祈りに祈ってやらせて頂くような、せっかくの事をしてから、すきだらけでおかげが頂けるはずがない。…ね。
%V頂きもせんどいてから油断しとる。いつも乗りそこのうとる。いつもバスに乗りそこのうとるようなもん。いつも取り落としとる。信心が分かってくればくるほど、出来れば出来るほど、綿密な信心をさせてもらわなければできん。第一拝む姿勢から、油断すきだらけ、信心の御用をさせてもらう中でも、いわばすきだらけ。
%G終戦直後、電気も明々と点けられなかった。ろうそく送電、ひどい時にはお線香送電と言いよった。中にちょっと赤いのが見えるくらい。ですから私どもも、洋服なら洋服を脱いでですね。いうなら寝巻きどん着て寝よった事じゃですね。朝の御祈念にお参りする時に、さあ「バンドはどこにあったか、ズボンはどこにあったか」ちゅうてから、枕元においとってもなかなか出来んのです。暗すみですから、暗すみ同様ですから、ですから私どもは、本当に、あのう、このう、ズボンどん脱いで休む事はございませんでした。上着だけは取ってから枕元においとった。ぱっと上着を取って出らる。【】前のほうから点検しておきました。…ね。
みなさんどうでしょうか。明日も、さあ、朝の御祈念に御参りさせて頂くためには、前の晩から祈りに祈っとかなければならない。せっかく御参りさせて頂くなら、ね、御祈念もそれこそ一分間でちゃ遅れちゃならん、御祈念に一分間遅れる事が自動車に遅れるような事で、もしあるとするなら、もうどうもしようがない。乗り遅れちゃならん。そういう、私は、油断をしちゃならんという事は、そういうふうに今日はそこんとこを頂きました。
%V油断もすきもならん。そすると、いつも緊張しきったものかというと、なるほど緊張しておる事は有難い。けども、人間というものはそう緊張ばかりできておるという事ではないけれども、その緊張しきっておけという事ではない。…ね。ちょっとなぞられてからでもですね。はっと気がつくくらいな信心をしよらないかん。信心が本当に身についてくる。
例えば、剣道や柔道をやる人たちなんか、段々上達して、あの人は上手だ名人だと言われるようになると、なるほど、やはり油断をしない。油断をしないというのはいつも緊張しておるという意味じゃないけれども、心がけが違う。
心がけが。…ね。いつ後ろからバンと打ち込まれても、はっと受け止めれるものがちゃんと身に備わっている。それにはそれだけの心がけが違うでしょうもん。
%W柔道やる人たちは、絶対<うでふっくら>という事をしない、絶対どんな事があっても、今は洋服だからそういう事はないけれども、昔は和服でしたからね。やはりうでふつくらというのをやりますよ。寒いと。これは、なーんも知らん人はこうやる。柔道やる人は絶対しない。いわゆるこげんしとる時、後から羽交い絞めにぱっとう抱きつかれたらそれでしまいだ。だから必ず手はこうして出しとる。という事。
%W剣道をやる人は道を歩いておって曲がり角で、必ず近回りをしない、遠回りをする。近回りをしよってから、出会い頭にぽんと打ち込まれたらそれでおしまい。だから遠回りをすれば、向こうから誰が来よるかという事がちゃんと分かる。もうこれはですね、もう、常平生の中に、そういういわば油断も隙もない姿というものが、姿勢が出来ている。
%V%3信心させて頂く者は、もっともっとですね、心がけなければいけん。どこに神の声があるや分からん。どこに神の姿を見るや分からん。それをグーグー眠っとってから分かるわけにいけん。そりゃ神様は眠っとるなら眠っとるでですね。いうなら御夢の中にでも御働きを下さいます。
%V%3ようみなさんお届けされます。今日御祈念中にくらっとしましたら、御神夢を頂きました。そりゃね、ああた方が出来ておるからじゃないですよ。眠とったちゃ神様がこげん働いて下さるという事を教えて下さるため、そりけん眠っとったがいろいろお知らせ頂けるけん、とかいう横着な考え方をする人がある。今朝御祈念中に、なんのことははじめからグーグー眠っとるとですよ。ちょっと眠たいじゃなか、自分はちょっとしか眠ってなかごとある。「ちょっと眠っとるとき御神夢を頂きました。」よかつのごとある。あれは恥ずかしゅうして言いはされんとですたい。
%3そげん油断がありますという事、私はみなさん本当にですね、それこそまだ持ってはいないのだから、この御徳のバスというものに乗ってはいないのだから、おかげのバスに乗っていないのだから、そのバスに乗らせて頂かなければならんのですから、ちょっとの油断が、もう行った後であったという事が、そして、いつもいつもその後であったというような事では、どのバスでどういうふうにおかげを頂けるという事になるか分からんのですから、油断は出来ん。
…ね。そしていわば、そういう緊張しきった信心をさせて頂きよるうちにです、信心の手も上がり、いうなら、剣道でいうなら有段者になってですね、段でもとってだんだん上がってくると、備わってくるものがある。
%V%4まあ私が自分の事を言っておかしいですけれども、私がここで修行しよる人たちに言うのです。私なんかすきだらけのような状態、けれどもおかげを頂いて、神様がちょっと撫でて下さるような事ではっと気がつく。…ね。ですから私が「すきがあったらどこからでも打ち込んできなさい」という。私は豪語しておるわけなんです。
%V%4けれども自分の中でひやーとする事がある。なぜって、今、もし誰かが打ち込んできたら、私は完全にやられているだろうと自分で思うことが、ちょいちょいある。自分でも。まあ神様がお繰り合わせ頂いてから、そういう時に打ち込んでこんからおかげを頂いておるようなもの。
%4ちょいと待ってくれんの、そういう難しいお届けならば、ちょっと今じゃでけんという時には私の心の中にすきがある時。いつでも、どんな時でも、どのような御取次でも出来る私でなければならない。…ね。
%4それが段々おかげを頂いてまいりますとです、今いうようにいつの間にか、身にしみ込んでくるという、そのしみ込んだもの、いつ打ち込まれても、刀影三寸で身をかわせれるだけものが段々出来てくるようになるまでは、ま、いうならばおかげを頂くまでは、これが御徳であろうかという御徳を受けるまでは、みなさん油断をしてはいけません。…ね。
%5実意丁寧の限りを尽くさなければいけません。な、私が久富さんの例をとりましたが、これほどに一家をあげて一生懸命信心をさせてもらい、これほど一生懸命の修行をさせてもらい、これほど一生懸命御用を頂いておる人が、たったちょっとした横着で、ちょっとしたわがままな実意を欠いだ事が、そこから乗り遅れるということであったら、いよいよ惜しいでしょうが。ですから、私はもっと、そげなことじゃ出来ん、…ね。
%5先日あちらの家内が、お届けを「電気洗濯機を買いたい」とても安い、安くしとくからというのである。だからお伺いをして買う。…ね。いまあんたげじゃどげな【】いただくじゃろうかちいうて。なるほど、最近の家庭で電気洗濯機なんかは、もう必需品、けれどもそれまでは手洗いで洗いよった。
%5久富さんはどげん言いよるの、どげん言いござるか。それこそまあだそれこそどげん安かもんがあるというたちゃ、今までこれで辛抱が出来ておるものがあるが限り、今の久富いさおさんの一家の上に、それこそ寄せつけもせん、まあだそげなだんか。一変にやらせてもらわねばならない時なんです。「安売りで売りよるけんち、買うちゃでけん」
%5ほんといやあ、家も立派に建て直った、もう何もかもが変革してしもうた、ボタンいちょでなにもかもが頂かなならんどころじゃないけれども、そういうおかげを頂いてもらわなければと、思えば思うほど、私はそれを言わなければおれんかった。
%5なら、この人たち一家が神様に打ち込んでおるということはどれだけのことが分からんけれども、まあそれを十四、五人の方が見られてから、久留米の佐田さんが出て来てから、「本当に先生は、久富さんにああしてやかましゅうおごんなさるように、いっちょわたしたちもおごって頂きたい」と、こういう。
%5先日から、【】のお届けさせて頂きましたら、お許し頂いた。本当に久富さん一家じゃなか、久富さん一家の上にも今ごろ着物の段じゃない時にお届けをしたら先生がすぐにお許しをくださった。…ね。
%5どげんしてちがや、あ、そげんしてお許し下さったじゃろうかと、こういうわけなんです。…ね。「私はあんとき反物買うたまんまでまだたんすの中にいれとりますから、あれは一時ばかり教会に預かってもらいますから、預かって下さい。」というてから、けれどもそこにはね、みんなが一様というわけにはいかん。
%5これはこの頃からの親教会の月次祭に、どうもいつもですけれども、若先生が親教会での態度が悪い。私がちょうどあそこで御結界奉仕をしよった。で神様にお願いしよった。帰ったならばいっちょやかましゅう言うてからおごっとかなならんとか思うてから、そしたら神様がね。
%5あの『植木鉢に盆栽を植える「盆栽風にどん育てるな」というてから、いわば自由奔走わがままあってなようであるけれども、わがまま勝手なように枝もはりゃ根も張っていくような、ことで「言いどもするな」』さあ、ようやく先生になったからというても、これからおかげを頂いていかなならん。だから、大きくならないかん。大地に根を下ろしたようなおかげを受けなきゃならん。それをあげんしたなら態度が悪いなどということを言いどもするな。
%5御結界の後ろが楽室である、そこで御用を頂いておる。それもいろいろ私は「あげなことしてから、あげなこというてから」ということがそばで聞こえてくる。だから豊美のああいう姿も黙っておかねばならん。注意をしちゃならん。言うちゃならんということを思うた。
%5そしたらね。『豊美の場合は「いちいち言え」』と頂きました。(笑)そしたら、ちゃんと豊美の場合はいちいち言いました。
ほんなこつ。…ね、ですからそこに佐田さんも一生懸命なら、久富さんも一生懸命、こうしてひっつかまえてからでも言わねばならない人とですね。【】しとったっちゃ、要するに人の話聞きよたっちゃ、これからここに預けに行きよりますけんでというものがないけんから、いわんですむとです。
ですけんね、こりゃもう、「先生があの人だけひいきしてから」とでも、決して思うてどんくださいますな。そげなふうで同じ自分の子供ですらですね、片一方は放任しておけ、片一方はいちいち言えというふうに、教導が違うのですから、そこに今日の油断やらすきやら取りはずすといったようなことがありますよね。
だから勝彦たちの場合なんかどげん取りはずしたってよかかんしれん、まあだ頂いとりゃせんのだから、…ね、だからもっとらんのじゃから、自分が本気で習おうという気になったら、…ね、ちゃっと【】おかげが頂けるわけなんです。
豊美なんかそういうわけにはいかんです。なぜって、まいっときしたらどこそこかやらにゃでけん。ですからいまんうちにいちいち言うてしつけをしておくならしておけとこういうことであろうかと私は思うです。
おたがいがですねここでは、まあおかげを受けてから先生と言われ少しおかげを頂いてくると、頭がたこうなる。出るくぎは打たれる。三宝様は実りゃ実るほど頭が下がる。自分自身の信心の内容というものを検討してみてです、ね。「はあー自分の信心はこれくらいのことである」ということを分からせて頂くと同時に、一番最後のですね。「油断をすな。慢心がでるとおかげを取りはずすぞ」というところを一番今日は聞いて頂きました。
なぜって、ここは皆さんまだ頂いていないのだ。ほいで、もう頂くチャンスはいつもありよるバスはいつも通りおる。…ね、けれどもちょっとの油断でいつも乗りそこのうとるというようなことではあるまいか。そんなら今こそですね、私の二十年前の自分ながら緊張し切っておった、油断もすきも作っちゃならんという、ああいう状態、ああいう信心の姿というものがですね、皆さんの上にあってよい時じゃないだろうか。
%V第一皆さんの、さあ朝のすがすがしさというけれども、朝から眠うしてこたえんということで御祈念してから、ね。御祈念の間は寝とってよかというような考え方の信心でもうはじめから落第、…ね。ます御祈念の姿勢、姿から、すきのない信心であり、御祈念であり、それはいうなら神様の御用を直接させて頂いよる。今日はどこどこの共励会で、共励会に望みよる。神様の御用をさせて頂きよる時でもまあだすきがある。
%Vそげなこっちゃおかげ頂けるはずなか、そういうことで自他共におかげ頂けるはずなか、行ったちゃなあにんならん。そげなこっちゃ。と私が言うておることがですね、そういうせっかっくの御用をさせて頂いておりながらでも、まだすきがある、皆さんの場合。だから今こそ、信心のしつけをしっかりしておかなければならない時ですから、それがだんだん自分の信条になり、自分の身についてくるようになって、…ね。
%V確かに三寸で身のかわせるおかげの頂けるところまで皆さんの信心を進めて頂きたい、ね。本当にそうです。もう一分間遅れたためにバスに乗りそこのうたじゃ馬鹿らしいでしょうが、ね、横着じゃいけません、わがままじゃできません、本当に実意の限りを私は、もうちっと鼻につくぐらい実意丁寧をモットーとしてから信心を進めていかねばならんとやなかろうかと思うのです。どうぞ。